三河大浜土人形

- 碧 南- 三河大浜土人形

碧南市立南中学校長  北 村   恒

 1 鮮やかな彩色の武者人形

今から30年以上前、新任教師として初めての家庭訪問で、各家庭を回っていたときのことである。棚尾地区と呼ばれる古くからの町並みの中にある築百年近くと思われるお宅を訪問した。広いたたきの土間のある玄関に入ると、玄関のあがりの正面に置かれた、50㎝ を超える鮮やかな彩色がされた一対の武者人形が目に飛び込んできた。

赤、青、黄、緑の原色を使い、表面がニスで塗られて光輝き、目を見開き、今、まさに槍先 を交えた瞬間を切り取ったような、大迫力の武者人形に大きな衝撃を受けた。「これは何ですか。」と聞くと「大浜で作られている土人形ですよ。」と教えられ、二度驚いた。

 左:加藤清 正 右:四方田但馬守(しほうでんたじまのかみ) 

恥ずかしながら、碧南で土人形が作られていることを全く知らなかった。「以前は、碧南のあちこちで土人形が作られていましたけど、今では大浜で作っている人がみえるくらいだそうですよ。」と続けられた。    

碧南市は愛知県の南西部に位置し、北を愛知県下で最大の天然湖沼である油ヶ淵に、東と南は矢作川、西を衣浦湾に囲まれている。碧南市の南にある大浜は、江戸時代以前より、三河一円の物資の集積地として多くの船が行き来する重要な港町として発達してきた。

 2 碧南の土人形の始まり

日本全国で作られていた土人形のルーツは京都の伏見人形である。伏見人形は日本の土人形として最古の歴史をもち、奈良時代の土器製作が始まりで、江戸時代の初期に玩具としての人形を作るようになった。伏見稲荷大社の稲荷山で作られた土鈴や人形が、全国から稲荷大社に参拝に来た人々の土産として持ち帰られ、全国に広く知れ渡り、その製作技術も全国に広く伝播した。

碧南で土人形が作られるようになったのは江戸末期の頃とされ、棚尾地区で鈴木嘉平が棚尾土人形を創始したとされている。明治に入り、嘉平の子、鈴木市太郎が明治10年に型を作った土人形の製作を始めた。大浜土人形は明治元年、歌舞伎役者であった亀島久八が起こし、型を使った人形作りは明治27年頃に美濃部四市によって始められた。

旭人形は明治24年頃、高山市太郎が旭村に窯を築いたのが始まりで、新川土人形は亀島初太郎が明治中期に生産を始めている。

碧南市内の各地で土人形作りが盛んに行われた背景には、瓦作りに使われる良質な粘土が豊富に取れたこと、人形の型を製作できる三州瓦の優秀な鬼板(=鬼瓦)師が何人もいたことが挙げられる。

碧南の土人形の特色として、歌舞伎物や武者物が多い。これは、娯楽の少ない中、大浜村を中心としたこの一帯は、村歌舞伎や村芝居への関心が強い地域であったことに起因している。歌舞伎物や武者物の土人形が大いに好まれたことが、土人形作りの興隆に一役買ったことが想像できる。

 3 碧南の土人形の興隆と衰退

明治になって盛んに作られるようになった土人形は、大正、昭和と作り続けられた。土人形は晩秋の農閑期に副業として作られることが多かった。これは、土人形がひな飾りとして求められるため、旧暦のひな祭り(現在の3月下旬から4月初頭)まで作り続け、土人形を売り歩く行商人が買い付けに訪れ、田植え前の時期に人形作りの区切りがうまくできていたためである。

碧南の土人形が盛んに作られた最後の時期は、太平洋戦争の終戦後から昭和30年頃までだと言われている。終戦後の国民全体がまだ貧しく、生活の苦しい中でも、子どもの健やかな成長を願う縁起物として、安価で手に入る土人形がひな祭りの時期に大いに売れたのである。

碧南の土人形は、半田の亀崎あたりの行商人が買い付けに来て、魚篭(びく)に40個ほど入れて、自転車や原付バイクの荷台に乗せて各地に売り歩いた。土人形の行商をしていた人の話では、碧南で仕入れた土人形は、はじめは碧南や安城、岡崎などで売り、そのあとは豊田や蒲郡、東浦町や阿久比、大府などに日帰りの行商で天秤棒を担いで売りに歩いたそうだ。遠くの足助や稲武で売るときには一泊で出かけたとのことである。

戦後になると、トラックで人形の買い付けにくる卸商人もあり、一台に大小合わせて三百個ほどの土人形を出荷し、多い家では、年間に八百〜千個の土人形を作っていたという。

現在、「中馬のおひなさんin足助」として多くの観光客を集めている足助のひな飾りには、明治から昭和にかけて碧南から運ばれた多くの土人形が見受けられる。足助(豊田市足助町)以外にも、稲武(豊田市稲武町)や小渡(豊田市小渡町)などからも卸の仲買人があった。

その他にも、碧南の土人形師が作成したと分かる刻印や刻字から、岐阜県東濃地方や下呂市合掌村、長野県下伊那郡など碧南から遠く離れた中部各地に、碧南で作られた土人形が運ばれていったことがわかる。

しかし、高度経済成長期を迎え、世の中の景気が良くなり、人々の暮らしも少しずつ豊かになる中、ひな人形も素朴で安価な土びな(土人形)から、豪華で美しい衣装びなへと、人々の求めも変わっていった。土人形の需要が急速になくなる中、多くの土人形製作者が廃業し、昭和30年代半ばには、碧南市においてはほとんど作られなくなった。

 4 大浜土人形と禰宜田家

 新任の家庭訪問で大浜土人形の存在を知ってから、7、8年ほど後、同じ校区の中学校に赴任して数年がたっていた。やはり家庭訪問で訪れた大浜地区のあるお宅の庭に小さな窯があった。不思議に思い、何気なく「何か焼いてみえるのですか。」と聞いたところ、「父が土人形を焼いているんですよ。」と教えられ、大いに驚いた。感銘を受けたあの土人形の製作者が担任した生徒のおじい様であった。

以前に大浜土人形を目にして、大いに感銘を受けたことをお話すると、「それは、『賤ヶ岳』ですね。」と教えられた。この後、知ることになるのだが、「賤ヶ岳」は大浜土人形を代表する作品である。高さ53㎝ の土人形は全国を見渡しても、稀な大きさで、賤ヶ岳の戦いでの、加藤清正と四方田但馬守(史実では山路将監正国)が槍を構えて向き合う一対の豪快な作品で、見た者を圧倒する。全国の土人形ファンの人気も高く、「『賤ヶ岳』の右にでるものはない。日本一だ。」との声もある。

二代 禰宜田 章 氏                                  初代 禰宜田佐太郎 氏

 この時、お会いしたのが土人形製作者として二代目の禰宜田(ねぎた)章さんであった。禰宜田家で土人形を作るようになったのは、章さんのお父様の禰宜田佐太郎さんが始まりである。佐太郎さんは子どもの頃より身体が弱く、細工事が好きだったので、土人形師になろうと決心した。土人形作りが好きで、誰に教わることもなく、独学で人形作りの創意工夫を進め、土人形作りを始められたそうだ。15歳で始めた土人形作りは、明治29年〜昭和31年の60年にもおよぶ。「人形の虫」と言われるくらい土人形作りが好きで、太平洋戦争中でも、休まず人形作りを続けていた。章さんは、戦時中は、                                      贅沢ななものや華美なものは処罰の贅沢対象だったので、こんな色彩豊かな土人形を作っていて大丈夫かと心配されていたほどであった。                                                                                                                         

 なお、昭和のはじめ頃には、大浜には、他にも美濃部泰作、榊原庄松という作者がいた。この三家は親しく付き合っており、互いによい土人形を作ろうとする競争意識もあり、よいライバル関係であったという。その頃は、棚尾にも土人形を作る家が十数軒あったが、短期間で廃業した家も多かったという。

 佐太郎さんも章さんも農業が本業で、先にも述べたが、土人形作りはあくまでも農閑期の副業として行っていた。章さんは15歳の頃から土人形作りを手伝うようになり、28歳の頃から、本格的に土人形作りに携わるようになった。当時、佐太郎さんを中心に、家族総出で作業を分担し、土人形を作っていたそうだ。佐太郎さんは75歳で亡くなるまで土人形を作っていた。佐太郎さんが亡くなった昭和31年は、土人形が求められなくなった時期でもあり、章さんも土人形作りからは手を引き、農業に専念することとなった。

 しかし、昭和40年頃になると、郷土人形の愛好家が禰宜田家を訪れ、熱心に土人形製作の再開を願った。熱意にほだされて土人形作りを再開すると、最初のうちは少量を作っていただけだが、数年すると、全国から注文が殺到したという。
禰宜田家の作る土人形は、歌舞伎や芝居に関する物や武者物が多い。また、それらの多くは組み物という一対の人形が多い。例えば、先に記した「賤ヶ岳」や五条大橋の「牛若丸と弁慶」、勧進帳の「弁慶と富樫」、一の谷の合戦の「熊谷直実と平敦盛」、忠臣蔵の「大石内蔵助と寺岡平ェ門」、浦島太郎の「乙姫と浦島太郎」などがある。

 その他に縁起物として、福助、招き猫、恵比寿、大黒、天神様などや、娘物として花魁や行灯持ち娘などが多種多様な人形がある。

 章さんは平成元年に健康上の理由で、土人形作りをやめられたが、やめたとたん、全国から土人形を作ってくれとの声が寄せられたという。全国の土人形愛好家の声に応え、土人形作りを継続されたが、数年の後、製作を終えられた。

 禰宜田家で土人形が作られなくなって、10年以上がたった頃、章さんの次男の禰宜田徹さんが、父・章さんの思いが語られた以前の新聞記事を目にされ、本格的に土人形作りを始められる決意をされた。療養中の章さんにそのことを伝えられ、平成15年から禰宜田家の土人形作りが三代目徹さんによって再開された。

 現在、徹さんは三河の唯一の土人形作者として、「土人形作りを、仕事ではなく、楽しみとして行いたい。」との思いで、自分にできる範囲でと決め、年間50体ほどの土人形を作っておられる。以前、禰宜田家で作られていた数には遠くおよばないが、自身でHPを作られ、注文は以前と変わらず、全国からあるという。

参考・引用文献
「平成25年度 碧南市市史資料収蔵品展 碧南の土人形」
2014 碧南市市史資料室
「企画展 三河土人形 〜素朴で動きのある造形〜」
1999 安城市歴史博物館

勧 進 帳                            三代 禰宜田 徹 氏

賤ヶ岳

花 魁                   写真提供  禰宜田 徹 氏 ・ 北 村  恒

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