- 岡 崎-
運慶作三尊像を滝山寺に誘った

    式部僧都 寛伝 (しきべそうず  かんでん)                                                                                                             

           岡崎市立常磐中学校長    戸 澤  剛

%e8%81%96%e8%a6%b3%e9%9f%b3%e7%ab%8b%e5%83%8f滝山寺の国指定重要文化財 

滝山寺宝物殿に一歩足を踏み入れると、三体の仏像が薄暗い空間の奥にたたずんでいた。国指定の重要文化財というので、さぞや厳重に展示されているだろうと想像していたが、中央に聖観音、脇には梵 天と帝釈天が息を吹きかけられるほどの 間近に、並んでいた。仏師運慶・湛慶父 子作の三尊である。運慶の作品というと東大寺南大門金剛力士像のようなイメージがあるが、魅惑的な優美さを漂わせていた。驚きであった。

中央の聖観音の背丈は約174センチ、眼光に引き込まれる。人形のような感じも受ける。梵天に施された胡粉(ごふん)の白さが光る。帝釈天は106センチであるが、たいへんな男前のお顔立ちに圧倒される。いずれにも美しい彩色がなされている。%e6%bb%9d%e5%b1%b1%e5%af%ba%e6%9c%ac%e5%a0%82                            滝山寺のこの仏像三体が運慶・湛慶作と判明したのは、昭和54年(1979)のことである。この年『滝山寺縁起』の翻刻(ほんこく)をきっかけに、美術史家や文化庁の調査が行われた。そして、『滝山寺縁起』に「惣持禅院仏(そうじぜんいんぶつ)」として登場する三尊が、同一の仏像であることがほぼ証明された。さらに、聖観音立像をX線透視撮影すると、頭部内に針金で吊るした小さな紙包状のものが確認された。『滝山寺縁起』によれば、その紙包みの中身は源頼朝の鬚(ひげ)(あごひげ)と歯であり、その像の背丈は、源頼朝と等身大によるものであった。そして、昭和56年には、この三体が国指定重要文化財に指定されることとなった。IMG_20160730_0005

全国に三十一体の運慶作の仏像

 現在、運慶作と認められている仏像は全国で三十一体存在する。その所蔵者を調べてみると左表のとおりである。いずれも奈良仏教の流れにある宗派の名刹ばかりである。
 運慶の生誕年は不詳とされているが、息子の湛慶が1173年生誕とあるので、運慶は1100年代中頃の生まれであろう。当時、天台宗・真言宗などの旧仏教勢力は、大きな力を保っていた。関東には武士団が、畿内は朝廷の力が及んでいたところであり、仏像が鎌倉と京都、奈      運慶作と確認されている31体の仏像の所在   
 良に多いのは納得ができる。伊豆の願成就院(がんじょうじゅいん)は、義父の北条時政の氏寺という格式であった。では、なぜこの三河の滝山寺に三体も存在するのか。とても興味深い。                                                                                                                                    

                                                                  

源頼朝公三回忌法要に                %e6%bb%9d%e5%b1%b1%e5%af%ba%e7%b8%81%e8%b5%b7      

この答えは、寺に伝わる『滝山寺縁起』に見出すことができる。

「惣持禅院の堂は、鎌倉右大将家の御為なり。彼の鬚と歯を仏身に納め、彼の等身を、仏の寸法として造るなり。(略)右大将は正治元年己未正月十三日に崩御す。土御門の正治二年庚申月日より造り始め、同三年正月十三日に供養を遂ぐるなり。第三年に当たる故なり。本尊は聖観音、脇士は梵天・帝釈なり。仏師八条の運慶・同子息湛慶18才。両界の曼陀羅泥絵・八祖の御影、右大将家御菩提の為に、式部僧都寛伝造立す。建仁元年に供養す。」(引用 岡崎市史)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      滝山寺縁起
正治元年(1199)1月に亡くなった源頼朝の菩提を弔うために「式部僧都寛伝が、惣持禅院を建立。三回忌に合わせて仏像を作らせ、1201年1月に供養した。頼朝の鬚と歯を形見として受け取り、頼朝の等身大の聖観音を造り、その仏身に納めた。仏師、運慶とその子湛慶である」と記されている。
鎌倉幕府初代征夷大将軍の三回忌の法要を滝山寺で行った「式部僧都寛伝」なる人物は、頼朝とどのような関係であったのだろうか。当時日本随一の名高き運慶に仏像を作らせることができた寛伝とはいかなる人物であったのだろうか。

IMG_20160730_0009頼朝、熱田での誕生

源頼朝の生誕については、『平家物語』を始め、多くの文献に、尾張熱田神宮大宮司の藤原季範(すえのり)の別邸とある。現在、熱田神宮西門前の誓願寺の門前に頼朝出生地を示す表示がある。
「この地は平安時代末期、熱田大宮司藤原氏の別邸があったところで、藤原季範の娘由良御前(ゆらごぜん)は、源義朝の正室となり、身ごもって久安三年(1147)熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれる。  名古屋市教育委員会」。
母である由良御前の父藤原季範が、当時熱田大宮司職にあり、由良御前が里帰りし、熱田で出産を迎えたことは頷ける。                                                        その後、頼朝は、わずか九歳で保元の乱の功績により官職を得るという武士の時代の黎明の中にいた。

頼朝と寛伝は従兄弟!

IMG_20160730_0010 寛伝と熱田神宮とのつながりを調べるため、熱田神宮宝物館へ足を運んだ。
寛伝の父である「藤原範忠(のりただ)」は、祖父の藤原季範の死去に伴い、1155年に熱田大宮司に就任している。
寛伝は、1142年に誕生していることから、頼朝誕生時には五歳である。生家の熱田大宮司家で生誕時に、頼朝と寛伝が出会っていた可能性は高い。また、祖父の藤原季範は、多くの時間を都で過ごしていた記録があることから、それ以後も、都や熱田で共に同じ時を過ごすことは多かったに違いない。寛伝と頼朝は、従兄弟同士という血縁だけでなく、彼らの幼少期、寛伝と武士の世界に生きようとしていた頼朝に、幾度となく交流があったことが想像できる。
運慶作の三体の仏像が、三河の滝山寺にたたずむ謎が、次第に見えてきた。

日光山満願寺住職から滝山寺へ

滝山寺縁起 によれば、寛伝は少年の頃、滝山寺に入寺していた叔父の粟田口法眼(あわたぐちほうがん)長暹(由良御前の弟)らを頼って、修行の道に入った。滝山寺は、天武天皇の命で金色の薬師如来像を祀る吉祥寺として創建された。一旦は、荒寺となっていたが、比叡山で修行した天台宗の仏泉上人永救(ぶっせんしょうにんえいきょう)が再興し、次いで熱田神宮大宮司藤原南家の保護を受けていた。                                                      滝山寺で天台僧として出発した寛伝は、その後、京都「真言宗総本山仁和寺」で修行し、真言僧として大成し、僧都にまでになっていた。                                                       「日光山列祖伝」(栃木県史・資料編中世四)の「第十九代座主觀纒儈都傳(かんでんそうずでん)」の記載によると、1182年、寛伝が41歳の時に、源頼朝の強い推挙により、下野国(しもつけのくに)(栃木県)日光山満願寺の第19世座主となった。しかし、衆徒との関係が悪化し、わずか二か月で三河の額田郡(ぬかたごおり)に帰ることとなった。同じ史料には、さらに「而して六十六郷を領す。」とあり、額田郡に戻った寛伝が66郷も領地を得ている。この厚遇には、熱田大宮司家と源頼朝の大きな影響力があったと容易に想像できる。 時は、伊豆に流されていた頼朝が、平氏追討の令旨(1180年)を受け、源氏再興の挙兵を果たし、1184年一ノ谷合戦大勝利という狭間にあった。源氏隆盛の幕開けと言える時代であった。

頼朝の急逝に

1199年、源頼朝は53才で急逝した。五歳年上の従兄弟、寛伝にとって、この急逝は大きなショックであったに違いない。『滝山寺縁起』に、次の記述がある。

「式部僧都御坊の沙汰と為て、惣持禅院を建立し、十口の供僧を置き、右大将家の御菩提を訪ひ奉る料所、当郡の内にて十町を寄進され畢ぬ。仏法興隆・人法繁昌、此の故に依るなり」(引用 岡崎市史)

三回忌の法要のために十人の供ばん僧そうを置き、訪問者のための経費の財源として、料田一○町を寄進したというのである。経蔵造り五間檜皮葺の惣持禅院、運慶・湛慶作の三尊像など、すべてを成し遂げるには莫大な費用が掛かったに違いない。私財の提供以外にも、姻戚関係にある生家の熱田大宮司家、鎌倉公方家などからも多くの援助があったと推察される。
法要までは実質二年間である。短期間で大事業を三河で行った寛伝の意気込みは、計り知れない。従兄弟同士の二人は普段から、かなり親しい関係にあったばかりでなく、武士の世界に生きる頼朝にとって、本当に気心を許せる数少ない人物の一人だったのではないだろうか。

頼朝と寛伝IMG_20160730_0011

そう考えると納得ができることがある。日光山満願寺座主の地位を寛伝に与えた頼朝に対し、わずか二か月で額田郡に戻ってしまった寛伝は、頼朝の顔に泥を塗ったことになる。絶縁関係になってもおかしくないはずだが、寛伝は滝山寺に入り、66郷を領するという厚遇を受けている。この二人の関係は「無二の親友」以上のものがあったと想像が膨らむ。
頼朝の急逝には、深い悲しみとともに、頼朝から受けた恩への奉公の 男前の顔立ちと帝釈天 念が湧きあがったに違いない。鎌倉でもなく京都でもない、三河の滝         山寺において、頼朝の遺鬚と歯を運慶作の聖観音仏頭に入れ、法要を行った寛伝の企画に驚きと感動を覚える。この三回忌から三年後、六十四歳で寛伝は没したと記録にある。

その後、室町時代を迎え、足利家・公家が鎌倉仏教と呼ばれる臨済宗等と積極的に結びつき、その保護の下、宗勢を伸ばした一方で、旧仏教の天台宗滝山寺は江戸開幕まで荒れ果てていった。                                   その後、江戸開幕とともに、家康の神号を「東照大権現」と称するまでの力を持っていた天台宗の勢力下で、滝山寺は再興され、東照宮が置かれるまでになった。                                             しかし、明治維新後は、領地を失い、東照宮も独立するなど、規模が小さくなった。
昭和56年(1981)、国指定重要文化財となるまで、寺の盛衰の歴史の中で、三尊が散逸せず、約八百年もこの地にあることは奇跡に近い。家康、秀吉、信長以前の日本の中世は難解であり、まして三河の地とは縁の薄い時代と思っていたが、執筆調査を通して、大きな歴史の中にこの三河の存在があることがクローズアップされた。
IMG_20160730_0012

参考・引用文献
「新編 岡崎市史 中世 2」、「新編 岡崎市史 資料古代中世 6」、「熱田神宮文書 千秋家文  書 下巻」、「古代・中世熱田社編年史料年表」、「日光山列祖伝」(『栃木県史』資料編中世4)

調査協力・写真提供                                    ◇滝山寺 山田亮盛住職、・「滝山寺縁起」「滝山寺本堂」、・仏像撮影”写真の店あさひ”    ◇岡崎市教育委員会(X線写真)  ◇熱田神宮