三河の文化を訪ねて 第109回 - 刈 谷-

   赤い鳥とともに生きた童話作家   森  三 郎 

                   刈谷市立富士松北小学校  浅 田 敏 宏

はじめに
今年7月に、『ちえの小法師』という紙芝居が勤務校に送られてきました。これは、「森三郎刈谷市民の会」が作成した森三郎童話紙芝居の第7作目の作品です。この『ちえの小法師』は、「むかし、三河に 小垣江というちいさな村が ありました」という書き出しからもわかるように、三河、刈谷を舞台にした作品です。
原作は、雑誌『赤い鳥』の1932年7月号に掲載された、刈谷出身の童話作家 森三郎の童話で、彼が21歳の時の作品です。
『赤い鳥』での作品名は、「ちゑの小法師」。名義は、森三郎ではなく、何と、「中村吉磨」というペンネームなのです。(このことについては、後述したいと思います。)
今回は、刈谷市の誇りである童話作家の森三郎にスポットライトを当て、彼の生涯をたどりたいと思います。

赤い鳥と森三郎・銑三(せんぞう)兄弟について
森三郎は、1911年(明治44年)1月25五日に、碧海郡刈谷町(現在の刈谷市)に、呉服商を営む森五市の三男として生まれました。4人兄弟の末っ子で、兄が2人、姉が1人がいました。長兄の森銑三(後の伝記作家)とは16歳も歳が離れていました。1917年(大正6年)に亀城尋常高等小学校(現亀城小学校)に入学しました。
1918年(大正7年)、鈴木三重吉によって児童向け雑誌『赤い鳥』が創刊されました。尋常小学校2年生の三郎は、銑三が入手してきた創刊号に接し、夢中になったと言われています。
   『赤い鳥』とは、鈴木三重吉が発刊した児童向け雑誌です。この『赤い鳥』によって、童話が文芸としての地位を築くことになりました。また、創作童謡や児童の作文、自由詩、自由画などに大きな影響を与えました。芥川龍之介や新美南吉などが、『赤い鳥』から巣立っていきました。このような児童の純性を育むための話・歌を創作し世に広める一大運動は、誌名から「赤い鳥運動」と呼ばれるようになりました。そして、その後、『金の船』(1919年)、『童話』(1920年)といった類似の児童雑誌が創刊されることになりました。これらの雑誌は、広く子どもたちから大人までを対象に、童話や童謡を募集していました。
1918年(大正7年)に、銑三が上京する際には、三郎は銑三の購入した「赤い鳥」を揃いで譲り受けています。銑三は上京後も、三郎のために「赤い鳥」を送り続けていたと伝えられています。
1921年(大正10年)5月23日付けの三郎から、当時高崎にいた、銑三にあてた手紙には次のような記述があります。
「兄さん本をありがたう 本は13日の朝葉書と一所に着きました。私は7日の日 足に少しけかをして學校をやすんでいます たいくつをしていたので どのくらひまつたかしれませんでした。赤い鳥で面白かったのは六人の少年王・人形・不思議な熊でした。又、童話の方は善いことをしたよろこび丁稚の和吉熊つかひでした。(原文のまま)」とあります。
この手紙から三郎が本を受け取った喜びとともに、兄弟間の温かい交流を読み取ることができます。

鈴木三重吉との出会い                                                                                                      『赤い鳥』によって、活字の魅力に開眼した三郎は、「読む」楽しさだけでなく、「書く」おもしろさにも目覚めました。そして、三郎は自身の夢である童話作家を目指し、亀城尋常高等小学校在学当時から、数々の童話を出版社に投稿しました。特に1923年(大正12年)1月号の『金の星』の少年少女の「自作童話懸賞大募集」に、童話『おぢいさんと三人の娘』を投稿して見事、佳作に選ばれました。これが自信につながり、作品の投稿を重ね、その結果、次々に入選し、誌上に作品が掲載されることとなっていきました。
1925年(大正14年)に同校を卒業後、新聞で見た団員募集の広告をきっかけに、東京の川上児童楽劇団に入団しました。これは、座付作家への憧れが応募のきっかけだと言われています。この川上児童楽劇団は、御伽芝居(子どものために大人が演じるおとぎ話)の創始者である川上貞奴(かわかみ さだやっこ)が創設した劇団です。三郎は1年ほどの養成期間を経て、童話劇や楽器演奏、舞踊などの舞台に立ちました。しかし、古めかしい芝居に限界を感じた三郎は、入団5年ほどで退団を決意します。
1929年(昭和4年)2月から1931年(昭和6年)1月までの間、『赤い鳥』は一時休刊となりますが、その後、復刊します。復刊後は、読者から読物を募集していることを知った三郎は、『赤穴宗右衛門兄弟』を「茅原順三」というペンネームで投稿、掲載されることになりました。     
1932年(昭和7年)1月には鈴木三重吉から「一度、夕飯を共にして、童話の表現についてお話し申し上げたいと思ひま。」という手紙をもらったことをきっかけに、童話の指導を直接受けることとなりました。
この後、三郎は毎月2作品以上『赤い鳥』に投稿するようになりました。三重吉は最も気に入った作品を森三郎の名前で、その他のものをペンネームで『赤い鳥』に掲載しました。
現在、三郎が「赤い鳥」に発表した作品は、(現在)判明しているもので119編、使用した名義は、本名を含めて、46を数えます。当時の森三郎が『赤い鳥』にいかに貢献していたか、また、三重吉がいかに、三郎を信頼していたかを伺い知ることができます。
同年6月に、三郎は編集記者として、念願の赤い鳥社に入社することになりました。

森三郎の編集記者時代                                                                                                  赤い鳥社に入社後も三重吉のもとで編集作業をするかたわら、童話の執筆も続けました。
復刊後の『赤い鳥』は読者から読物を募集していましたが、なかなか作品が集まらないことが続きました。また、三重吉の厳しい指導に耐えかねて赤い鳥社を辞めていく者もいました。しかし、赤い鳥との出会いをきっかけに童話作家になりたいという夢を抱いた三郎は、三重吉が死去する1936年(昭和11年)まで三重吉と二人で編集を手がけていました。
三重吉が死去すると、三郎は、遺稿の他、写真、年譜、関係者らによる追悼文など360頁におよぶ『鈴木三重吉追悼号』を単独で企画・編集し、発刊しました。これが、雑誌『赤い鳥』の最終号となりました。

 赤い鳥を去った森三郎                                              1942年(昭和17年)4月、中央公論社から、『赤い鳥』に掲載された江戸小話をまとめた『昔の笑い話』が発刊されました。同年8月には、帝国教育会出版部から『赤い鳥』で発表した作品18編を全面的に書き改めた『かささぎ物語』を出版するなど、数多くの童話集の発刊に努めました。
1945年(昭和20年)3月、東京大空襲で本郷(東京都)にある自宅を焼失しました。移り住んだ牛込の下宿も5月の空襲に見舞われ、その後、刈谷に戻り、終戦を迎えました。
戦後刊行された、森三郎の単行本は、『幼年童話集 帽子に化けたクロネコ』(東京一陽社)と『三年生の童話 お話の泉』(東京一陽社長野分室)の2冊で、前者が1949年(昭和24年)2月に、後者が3月に出版されています。
1951年(昭和26年)5月から、三郎は刈谷高校に勤務し、図書館司書などの事務に従事しましたがわずか3年ほどで退職しました。
1958年(昭和33年)、雑誌『新世界』に「鈴木三重吉研究」を寄稿してからは、三郎の著作活動は次第に、『赤い鳥』編集の思い出や証言などのノンフィクションに移行していきます。
   ただ、晩年の三郎は、童謡に心をひかれた様子で、推敲を重ねたノートが残されています。その作品の一部は、1989年(昭和64年)から亡くなる直前まで、広島で発刊されている「鈴木三重吉『赤い鳥』通信」の中に発表されました。
『赤い鳥』を読み、『赤い鳥』に書き、『赤い鳥』を論じるというように、三郎の生涯に大きな影響を与えたのは、やはり『赤い鳥』でした。そして、その原点は、胸をときめかせて読んだ、小学生のときの体験だったと思われます。
三郎は生涯300編ほどの数多くの童話を発表しています。
三郎は1993年(平成5年)8月27日に82歳で亡くなりました。現在は刈谷市の正覚寺に眠っています。

 

刈谷の子どもたちと三郎                                       朝の読書の時間、本校では、担任が、子どもたちに、森三郎の作品の紙芝居の読み聞かせをよく行っています。「むかし、三河の城下町、刈谷に七右衛門というおじいさんが、おばあさんと暮らしていました。」
これは、『目ぐすり』というお話の冒頭部分です。この『目ぐすり』というお話は、目が悪くなった母親のために、目薬を買いに行く狐の子どもをおじいさんが助けるという心温まる作品です。
このように、刈谷市内の子どもたちは紙芝居や童話集を通して、森三郎のお話にとても親しんでいます。また、市が設けている森三郎童話賞に、感想文や創作作文を応募する子どもたちもたくさんいます。

参考文献
「森三郎童話選集かささぎ物語」 刈谷市教育委員会、中央図書館 編者
「夜長物語」 刈谷市教育委員会、中央図書館 編者
「森銑三と森三郎兄弟」 刈谷市中央図書館編纂
「刈谷郷土資料」 刈谷市郷土資料検討委員会