三河の文化を訪ねて  第104回

- 安城-

経世済民の人・杉浦源右衛門

安城市立安城西部小学校長
片岡 晃

一 開墾地を美田に変えた恩人

【洋装の杉浦源右衛門像】安城市福釜町「ひたみちに
   其の永き世を捧げける 
     恵みふかまの 君ぞ尊き」

これは、安城市福釜町に生まれた能書家、荻野謙堂(けんどう)先生の短歌である。

杉浦源右衛門(げんえもん)は、明治用水に関わる郷土の偉人であり、正に私財を投じて地域の人々のために尽くした経世済民の人である。明治用水通水後、碧海地方に見渡す限りの美田が広がり、かつてこの地域が「日本デンマーク」と呼ばれるほど先進的な農業が盛んになる礎を築いた恩人である。しかし、今や、その出生地の福釜町の住民でさえ、杉浦翁の功績を知る人が少なくなっている。杉浦翁は明治用水開削の功労者「都築弥厚・岡本兵松・伊予田与八郎」、農聖と呼ばれた「山崎延吉」、用水管理の道筋をつけ碧海の発展に尽くした「岡田菊次郎」等の偉大な人物に勝るとも劣らない傑物である。しかし、前述の三人は、明治川神社(安城市東栄町)に神として崇められている。

後者の二人も功績はすばらしく、この「教育と文化」で紹介されている。知名度の点でも、あまりにも差がある。自らを犠牲にして多くの民のために尽くした学区出身の「義の人」を多くの人に知っていただけるよう、本紙で紹介したい。

二 源右衛門の業績、「継年期延長」

継年期延長運動という耳慣れない言葉について説明する。

明治用水の開通によって台地上の山林・原野が開墾され、畑も水田に変換することが可能となった。しかし、これらの開墾田や畑からの変換田については、土質が成熟するまでに時間がかかり、多くの収益を得られなかった。そこで、開墾田には鍬下年期という租税の免除期間を長くし、また、変換田の公的地価を安く据え置きする期間を長くするという、継年期延長運動が起こった。

民間の出資によって開削された明治用水は、同じ頃開削された安積疎水(福島県)がすべて国費で賄われたのと比較すると、地元農民にかかる負担が大きく、さらに、同等の鍬下年期では極めて不利益であった。また、碧海郡の地価は必要以上に高く設定され、開拓農民の生活を苦しめていたのである。継年期延長運動は、第一期から第三期までに至る。この第一期と第二期に大活躍したのが、杉浦源右衛門であった。

第一期‥明治九年に制定された開墾地の鍬下年期と、明治一四年に制定された地価据置年期の一〇年延長を実現。

第二期‥明治三四年に、「鍬下年期、新開免税年期、地価据置年期延長の法律」が制定され、開墾地、地目変換田とも、年期付与の年から通算して、最大五〇年の延長を実現した。

第三期‥大正一一年に、継年期は認められないが、地価修正によって農民の負担を軽くする政府通達が出された。

源右衛門、起ち上がる

第一期継年期延長運動当時、村会議員等を務めていた源右衛門は、農民の窮状を見て、黙ってはいられなかった。明治用水が開通して、農民が原野・小松原を苦労して開墾して水田にしていった。しかし、開墾した土地からすぐに十分な収益をあげられるわけではない。当時の農地は非常に痩せた土地であったうえ、小松原も開墾され、堆肥の原料を作る下草を得る草刈り場が少なくなっていた。(当時は水田を耕作するのに、水田と同じ面積の草刈り場が必要だった)さらに、安城の土地は、酸性であったため、多量の肥料、特に藁灰が必要であった。そのため、アルカリ性の土質で藁灰を必要としない海部郡まで、安城からたくさんの藁灰を買いに行ったそうである。あまりにも開墾の現状が厳しかったので、「一反歩の土地に、酒一升を添えてでも手放した」というほどの珍現象も出てくる始末であった。

源右衛門は、自ら愛知県会の第一人者内藤魯一を訪ね、農民の窮状を救うための協力を求めた。元自由民権運動の闘士であり義に厚い内藤魯一は、源右衛門の熱意に共鳴して、協力を惜しまなかった。
そのおかげもあり、一〇年の年期延長が実現し、年期明けが明治三四年まで延ばされたのであった。これが、第一期継年期延長運動の源右衛門の功績であった。

源右衛門の苦悩と努力

しかし、土壌改良のための肥料購入費がかかり、高額な地価の査定額による多額の税金を支払わなければならない農民の苦しみはずっと続いていた。義に厚い源右衛門の心は、ますます燃え上がり、再び同志を集め、明治三一年、自ら委員長となり、継年期同盟会を組織し陣頭指揮をとり、活動を始め、政府に直接陳情することにした。源右衛門は、那須野ヶ原(栃木県)および安積平野(福島県)の官営の開墾地が地租免税の面で優遇されていることを知り、明治用水関係開墾地も、税金を免除される年期が延期になるように頼めば、願いが通じるのではないかと考えた。

しかし、この源右衛門の考えは、同志にさえ受け入れられず、狂気の沙汰として協力する者はいなかった。当時、安城から東京に行くことだけでも一大事であり、さらに政府に直訴して叶う願いではないと皆諦めていたからである。源右衛門が無二の親友として信頼していた西別所(現在の安城市西別所町)の若杉菊次郎さえも、東京同行を約束していたのにもかかわらず、前日になって、「やはり行けない」と断ったという有様であった。

源右衛門は、単独で上京し、碧海郡六ツ美村大字中島(現在の岡崎市中島町)出身の代議士早川龍介を訪ねて、継年期延長等の援助を懇願した。

ここでの源右衛門と早川龍介の話は、なかなかドラマチックである。源右衛門が訪問する前に、早川龍介のもとには、明治用水組合の者たちから、数通の手紙が届けられていた。その内容は次のようであった。

「今回の杉浦源右衛門の上京は、狂気の沙汰である。我々には関係ないことで、杉浦が話すことは我々の意志ではない。期成同盟会なるものは、明治用水組合とは一切無関係であるから、話を聞いても無駄なので、適当に受け流して、官庁へ願いを出すこともやめるよう言ってほしい。」というものであった。その事実を知った源右衛門は、「誰も自分の考えを分かってくれないのか。」と声を上げて男泣きしたと言われている。しかし、早川龍介は、源右衛門が落ち着くのを待って、「君の言うことはよく分かった。実は、僕も地租改正事業の頃から、(地元の)碧海郡の地価が不当に高いことを問題にし、継年期と地租修正の運動を起こそうと思い、その準備工作中であったのだ。」と静かに話した。早川龍介は、源右衛門の訪問を受け、その考えに大いに共鳴し、同志を得たと喜んだのであった。

安積疎水(猪苗代用水)と明治用水の比較その後、早川は、当時の政界の実力者、元田肇の協力を得て、内務大臣西郷従道(西郷隆盛の実弟)、大蔵大臣松方正義、農商務大臣曽根荒助の三大臣に、源右衛門を同伴して、農民の生活が困窮している現状を訴え継年期延長の必要を説いた。
その後、源右衛門は大臣の添書を受けて、猪苗代湖の安積疎水、栃木県の那須疎水の実地調査に赴くことになった。下の表は、源右衛門の視察を基に、安積疎水と明治用水を比較したものである。

源右衛門の計画の無謀さを再三忠告していた西別所の若杉菊次郎も、源右衛門の熱意に心をうたれ、その後は熱心な協力者になったという。

この東北の調査も大変であって、流行性感冒に苦しんだり、調査を終えた帰途、仮眠中に泥棒にお金を取られたりと散々な思いをしたという。

源右衛門憧れの人物 佐倉惣五郎

源右衛門は、なぜ辛苦に耐え、この大事業をやり遂げることができたのであろうか。源右衛門の心を常に支えていたのは、彼が尊敬する人物、江戸時代の義民、佐倉惣五郎であった。

惣五郎のいた佐倉藩の藩主、堀田正信の父は、徳川家光の乳母春日局の縁者、堀田正盛であった。堀田正盛は、幕府の中で大きな力をもっていたが、家光の死の時に殉死し、嗣子正信が家督を継承した。しかし、若年で江戸在住でもあったため、佐倉藩の藩政一切は、家老の池浦主計に一任されていた。

家光の晩年の一六四四年、佐倉領内は未曽有の大飢饉に見舞われて、農民は困窮を極めた。百姓一揆が起きる寸前に、名主惣五郎は私財を投じて救助米を施し、ことを未然に防いだ。惣五郎は、その功により堀田正盛より、苗字帯刀を許されたのである。しかし、その後も続く凶作で、ますます農民の生活は困難を極めた。
藩政を任されていた家老池浦は、農民を助けず悪政を続けたので、全藩三八九ヶ村の名主惣代から、何回も減税嘆願書が家老へ提出されたが受け入れなかった。
さらに、一六五二年秋には、大暴風の害で農作物は大損害を受け、一家離散、路上で餓死する者まであり、地獄のような状況に陥った。

惣五郎を含め六人の代表が、一六五二年一一月一七日、江戸の堀田正信屋敷本邸に減税の嘆願書を提出したが、相手にされず追い返された。さらに、幕府の中で公明英才の誉れが高かった老中内藤伊賀守忠重に、万が一の望みを託して直訴したが、体裁よく断られた。唯一残された道は、徳川四代将軍家綱に直訴することであった。直訴は、即ち、死を覚悟することであった。惣五郎は、一男三女の事後を妻に託し、且つ妻子に冤罪が及ばぬように離縁状を手渡し、一人でこの大役を引き受けることにした。惣五郎は、見事、将軍家綱に直訴を敢行し、後見職肥後守、保科正之の手中に訴状は納められた。面目を潰された堀田正信は、激怒し家老池浦に惣五郎を厳罰に処するよう命じた。領内各村は連判して助命嘆願書を提出したが、何の効果もなく、惣五郎は磔、子供四人のうち、子女三人の名を男子に改名し、四人を打ち首として処刑した。徳川幕府は、藩主や家老の罪を問い、堀田正信は流罪、お家断絶となった。
一方、佐倉藩の農民は、惣五郎の死後三か年、税の免除と、救助米を与えられた。
惣五郎の義心と至誠は、その死によって結実、貫徹され、いつまでも義民として語りつがれている。

杉浦源右衛門は、明治三二年の東北視察の帰途、総房の地を過ぎる時、尊敬する佐倉惣五郎の霊廟を拝し、感激して、歌を吟じた。

「いや高く 民の煙の 豊けきは 
  君が命に かへし 功(いさをし)」

努力が報われた源右衛門の喜び

明治三二年七月、早川龍介の指示により、継年期延長運動嘆願書を政府に提出した。そして、請願書は政府に受理され、その趣旨は、政府案として、明治三四年一月の国会第十五議会に、「鍬下年期、新開免租年期、地価据置年期の延長に関する法律案」として提出された。ちなみに時の内閣総理大臣は、第十代総理大臣、伊藤博文であった。同年四月に法律として公布され、源右衛門の願いが叶ったのである。特に、この明治用水の開墾地だけは、検査を要せずして、免税の延長の恩恵を受けることになった。

東京で、法律案が議会で成立するのを見届けた源右衛門が安城に帰郷したとき、郷里の人々は、花火を上げ、万歳したり旗を振ったり、大歓迎で源右衛門を迎えたそうである。

三 晩年の源右衛門とその後

一九一七年(大正六年)、七四歳の生涯を閉じた源右衛門であったが、明治用水通水後、地域の人々のために尽くし、安城の地のみならず碧海地方が発展する礎となったのにもかかわらず、明治用水に関わった他の人物と比べて、その功績はあまり知られていない。源右衛門の銅像でさえ、没後一〇年以上経ってから明治用水五〇周年に併せて建立されたそうである。

源右衛門は、継年期延長運動のため、東京と愛知を往復すること、三十数回、東奔西走した。当時の鉄道運賃等は、大変高価であり、彼はこの運動のために、家も土地も財産も失ってしまった。源右衛門の家は代々庄屋や村長を務めた名家で、彼はその四代目であったが、すべて自費で運動を進めた結果、すでに地主ではなくなっていた。長男や苦労をかけた妻、そして無二の親友の若杉菊次郎までにも先立たれた悲しみもあっただろうが、彼の辞世の言葉が、「僕は残念だった。」というのは、いかにも切なすぎる。

彼の本意は分からないが、彼の功績は、都築弥厚、岡本兵松、伊予田与八郎等の偉人に匹敵するものであったことは間違いない。五〇年間の税金免除での耕作は、地主にとって非常に大きな利益であり、そのために、碧海台地は美田となることができたのである。彼の偉業を後世に広めるのは、私を含め、この安城西部小学校区、福釜の地に関わった全ての者の務めであると思う。

この原稿の多くは、この福釜の地の書の達人、荻野謙堂(本名 荻野 勇)先生が著した「福釜の里第六編」より引用している。荻野先生は、その書の終わりに、次のような歌、書を残している。

一筋に くにの為なり世のためと 我が身ささげし 君は神なり「一筋に くにの為なり世のためと
我が身ささげし 君は神なり」

荻野先生の想いを受け継ぎ、安城西部小学校では、学芸会で杉浦源右衛門を題材にしたオリジナルの劇を演じたことがある。

下記の写真は、平成五年度、当時の安城西部小学校教頭、天野暢保(のぶやす)氏創作の脚本による小学四年生の劇の風景と、事前学習の写真である。

また、安城市の郷土読本「安城」(四年生の学習で使用)の第七章「郷土に伝わる願い」には、杉浦源右衛門が明治用水通水後の安城の発展を支えた人として掲載され、子どもたちはその功績について学んでいる。

天野暢保先生の源右衛門についての授業天野暢保先生の源右衛門についての授業 「杉浦源右衛門と日本デンマーク」の劇を熱演「杉浦源右衛門と日本デンマーク」の劇を熱演

四 源右衛門にまつわる余話 「洋装の源右衛門」

源右衛門の銅像は、没後一一年目の昭和三年に建立されたが、昭和一七年、戦争のため金属供出で献納され、昭和三一年に現在の銅像が再建されている。この銅像は、当時の人々の羽織、袴姿とは違い、フロックコート(礼装)姿である。
これは、源右衛門が東京に出向いたときの姿である。彼は東京に出るにあたり、「大臣等に面会するのに、昔の日本のような古い羽織、袴姿では通用しない。西洋に追いつき追い越せという明治という時代の気風にあった服装で交渉に当たらなければいけない。」と考えたのである。
三〇アールの田を売り、モーニングやフロックコート等を一揃え購入したそうである。

「源右衛門の奉納灯籠」

【源右衛門奉納の灯籠】明治川神社の正門を入ると、右側に、源右衛門が寄附した一対の灯籠がある。

これには、こんなエピソードがある。先述の、継年期延長の法案が帝国議会を通過したとき、源右衛門は、自分の今までの努力が実った喜びを故郷の人々に早く知らせようと、早速、東京から安城に帰ってきた。地元では、あたかも凱旋将軍を迎えるように、各村から大勢の人々が駅に源右衛門を迎えに出かけた。福釜村は、特に村の全十組それぞれが大きな幟を押し立てて行進して出迎えた。安城駅に到着した源右衛門は、喜びのあまり、列車が止まらないうちに、飛び降り頭部を負傷した。程なく全快したとき、「これは常に信仰している明治川神社のご加護によるものだから、ありがたい。」と感謝して、平癒記念として、灯籠一対を奉献している。源右衛門の喜びの大きさと、その豊かな人間性を表す話である。

「源右衛門、枝下用水の裁判で活躍」

枝下用水は、西加茂郡猿投地区、碧海郡高岡・上郷地区(現在の豊田市域)の農民の苦しい生活を救い、開墾田を十倍に増加させたという。しかし、枝下用水に全財産を費やした西澤眞蔵の没後、明治三三年には、干ばつの兆しがあり、矢作川の水をめぐって、明治用水、枝下用水の対立は激化した。両者の争いは、互いの堤防や牛枠(うしわく)(水流を調整する道具)などを破壊し合う事態が起きたり、工事の許可等をめぐって、行政訴訟まで発展したりした。この裁判の結果は、明治用水側の主張が通り、枝下用水側の全面敗訴という形で決着がついた。この時に活躍したのも、杉浦源右衛門であった。明治用水水利組合総務委員として参加した源右衛門は、裁判の中で、被告側で意見陳述を行ったが、弁舌さわやかに熱弁をふるい、明治用水側の勝訴に貢献した。

○参考資料

  • 「福釜の里 第六編」(荻野謙堂編)
  • 「福釜の今むかし」(福釜町公民館発行)
  • 「明治用水百年史」(明治用水土地改良区発行)