- 田 原- 民衆の自由の獲得と愛に生きた人   村 松 愛 蔵

                                                田原中部小学校教頭 山 田        敦  

 はじめに
笑みを湛える制服を着た老人。自由民権運動と人々の救済に生きた村松愛蔵を知る人は、もはや出身地田原市においても少なくなった。世界各地で戦乱、痛ましい事件が起きるなか、人々への愛に生きた愛蔵の生き方を見直す必要があろう。

              生い立ち
村松愛蔵は安政5年(1857)3月2日、田原藩家老の家に生まれた。田原藩は渥美半島の半分ほどを領有していた1万2千石の小藩である。藩主三宅家は代々家康の「康」の字を拝命する格式の高い家で、愛蔵が生まれる幕末には優秀な人材を多く輩出している。渡辺崋山もその中の一人で、崋山を中心とする藩士は、西洋への関心が深かった。また、いち早く西洋流の軍事組織を取り入れ異国船対策のための海岸防備を行うなど先進的な気風に富んだ藩であった。

   生誕地である村松邸は、現在の田原中部小学校の敷地内にあった。村松家の庭木として植えられていたイヌマキは、今も子どもたちを見守っている。
 愛蔵は、12歳の時に藩主の若君三宅康寧の御稽古相手として出仕した。藩校成章館(現在の愛知県立成章高校の前身)では、伊藤鳳山から儒学、鈴木春山(蘭学者)の孫才三・村上定平(西洋砲術家)の子照武から英語を学んだ。16歳で上京し、東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語学科に入学した。学校の同級生には、その後日本を代表する学者などの顔ぶれが揃っていたほか、校長には中江兆民が就任するなど、多感な少年愛蔵は、大きな刺激を受けたであろうし、その後、自由民権運動へ傾いた彼の人生に大きな影響を及ぼした。

 自由を求めて
 明治時代になると、政治の世界では薩摩と長州出身の藩閥専制政府に対する不満が日ごとに増していく。愛国心に燃える者は議会の開設、言論や集会の自由を
求め、自由民権運動へと進んだ。その中心となったのが板垣退助で、明治13年(1880)には国会期成同盟が結成された。田原に帰った愛蔵もしだいに板垣の思想に共鳴し、地元の鈴木孝之助、広中鹿次郎、永瀬誉(建築家永瀬狂三の父)らとともに田原に政治団体「恒心社」を結成した。そして西三河の内藤魯一らとともに国会開設に向けて署名運動を盛り上げ、各地を遊説した。
 明治14年、愛蔵は「日本憲法草案」を起草し、愛岐日報に発表した。その内容は一院制国会、国民の権利を無制限に保障、税額を問わず国税納付者や婦人戸
主や満18歳以上の男子に選挙権を認めるなど、若き25歳の愛蔵が考えた斬新なものであった。そこには、民衆第一とする彼の考えや知識の豊富さを見ることができる。

   この年、愛蔵は、板垣退助が党首となった自由党に入党し、翌15年には板垣を田原に招いて巴江神社で演説会を催した。一般大衆の啓蒙に努め、その範囲は西三河にまで及んだ。田原が「三河の土佐」と呼ばれ、自由民権運動が盛んな町であるだけでなく、三河地方に新しい政治意識を広げた功績は大きい。このように常に時代の先を見つめ行動する愛蔵の気質は、渡辺崋山以来の伝統である。
 明治17年(1884)、愛蔵は政府の民権運動に対する取り締まりに反発して直接行動に訴えるため、長野県飯田の自由党員たちと兵を挙げ反乱を起こす計画を立てた。しかし、この企ては事前に発覚し、愛蔵は同志とともに逮捕された。
 明治18年、愛蔵は軽禁獄七年の判決を受け、北海道の監獄に送られて服役した。この愛知と長野両県の自由民権派による政府転覆事件は、飯田事件と呼ばれ
ている。明治22年(1889)、憲法発布の大赦により四年の服役で釈放された愛蔵らは、地元田原で英雄のように迎えられた。当時の民衆は国事犯を英雄視していた。それは国政に対する民衆の不満の大きさを示している。

 政治家への道と挫折
 出獄後、後藤象二郎の大同団結運動に加わり中山道を遊説した。明治23年、板垣退助らが立憲自由党を結成すると入党し、評議員になった。この頃、名古屋の扶桑新聞社(藩校で学んだ鈴木才三経営)の記者となり、時事評論、最新のロシア情報を紹介した。また、下宿先のキリスト教信者の娘きみと結婚した。
 明治27年(1894)、第3回・第4回の衆議院議員選挙に二度出馬したが、ともに落選。明治28年に日清戦争後の状況視察のため韓国に渡り、翌年4月には参謀本部の委嘱を受けてヨーロッパ・アジア視察に出かけ、ロシアで帝政ロシアの内情を見聞した。帰国後の明治31年(1898)の第5回衆院選で初当選、以後3回再選を果たし立憲政友会に属して政界の重鎮として活躍した。

愛蔵は明治42年(1909)の日糖疑獄事件で不正にお金を受け取った疑いで23名の代議士と共に検挙された。この事件は大日本製糖株式会社が不当配当したことに端を発している。会社は窮地を救うために、煙草・樟脳・塩の生産品を専売にしようと、当時の農政局長を政府連絡のために社長として迎え入れた。そして専売制実現のため主要政党の所属議員を動かして、議会に砂糖官営法を提案させるために、莫大な運動費を遣った。このことが発覚したのである。会社重役はもちろん、多数の逮捕者が出て、社長は自殺、また愛蔵をはじめとする政友会の三聖人と呼ばれる議員も逮捕されたことは世間を驚かせた。実際のところ愛蔵は、友人の代議士から融通された資金が、大日本製糖株式会社から出た資金であることは知らなかった。しかし愛蔵は言い訳を一切せず、他の多くの代議士が弁明、控訴、また秘書らに罪を転嫁したのに対し、「私は神の裁判を受けます。人の裁判を受けません。」とし、一審であっさりと服罪した。愛蔵は法律以上の正義・潔白を生活信条としていたが、事件に巻き込まれた自分の行動を恥じ、「国政に参加する資格はない。」と潔く衆議院議員を辞職し、政界からの永久離脱を宣言した。


 人を救う道へ
 愛蔵は獄中で、妻からの差し入れの聖書を読んだことから、キリスト教に回心した。このことは、服役後、救世軍に入隊するきっかけともなった。救世軍とは
イギリスに本部を置き、宗教活動、社会福祉事業、教育事業、医療事業を行うキリスト教団体である。日本の救世軍は明治28年に山室軍平らにより始まり、布教活動、廃娼活動、災害時の支援活動を進めていた。

明治43年(1910)、愛蔵は救世軍に入隊した。それは、人々を幸せにするために取り組んだ民権運動や政治活動に挫折した彼にとっての唯一の道だったのであろう。この情報はいち早く新聞に取り上げられた。年末のある日、愛蔵は日比谷公園の一角に立ち、年末の慰問慈善鍋の募金運動に従事していた。この日は議会の開院式であり、その前を多くの代議士が通り過ぎる。寄付の声をかける愛蔵を見た代議士たちは「村松は堕落した。」とあざ笑うものもいれば、「救世軍の一兵卒と代議士たると何れが貴き。」と賞賛する者もいたという。もはや愛蔵は、政治家とは完全に決別し、救世軍の一兵卒としての道を歩み始めたのである。
 政治家時代は家庭を顧みず、妻とは長い間別居状態であったが、愛蔵の決意とその活躍に感動した妻きみも明治四十四年に上京し、愛蔵と共に救世軍士官(伝道者)学校に入校した。二人は共通の志を持つことによって再び結ばれたのである。
 時には、田原の愛蔵を慕う人たちが、政界への復帰を懇願したが、彼は固く断った。愛蔵がその後田原を訪れなかったのは、田原の人たちへの情に流されない
ようにするためだった。後日「それですから村松は、最期までただの1回も懐かしの故郷、父祖の眠る田原へ帰らなかったのです。郷里の方々に捕まるのを恐れ
たのです。」ときみ夫人は語った。田原で行われた納骨式の際には、きみ夫人は愛蔵の長年の無沙汰をわびたという。それほど愛蔵の決意は固かったのであろう。大正2年(1913)に愛蔵は少校に昇進し、本営で身の上相談を担当するようになった。15年余りの間に2万8千件以上の身上相談活動を扱い、荒んだ心を救い、多くの人たちを社会に送りだした。

  愛蔵は救世軍引退後も、宗教家として多くの人を救う活動を続けたが、昭和14年(1939)4月1日、83歳で亡くなった。5月14日、遺骨は田原中部尋常高等小学校の講堂に到着し、盛大なキリスト教納骨式が行われた。代表として、近藤寿市郎が弔辞を奉読した。寿市郎は田原市の出身で国会議員、豊橋市長に就いた政治家である。また、豊川用の発案者で、田原市の農業を全国一に導く礎を築いた人物でもある。寿市郎は若いころ自由民権運動に傾倒し、その中心的人物であった愛蔵を尊敬し、選挙活動にも奔走した。

 おわりに
 飯田事件に見る民権運動で、彼のとった過激な行動は今日ではとても受け入られるものではない。しかし、彼の純粋さは、人生の前半においては世界を見据え民衆の自由の獲得に奔走する姿に、後半においては人々を救済する姿に表れている。共通する点は、その目線は常に民衆、かも立場の弱い人たちに向けられ、愛に満ち溢れているということだ。
 愛蔵は三河田原駅西にある城宝寺の村松家の墓所に眠っている。奇しくも渡辺崋山一家の墓所の南に接している。墓石には「村松家累代之墓 昭和14年4月11日 村松きみ建之」と刻まれている。大正13年(1924)9月、愛蔵が田原中部小学校の後輩に送った言葉がPTA機関誌「家庭と学校」240号(大正13年10月発刊)に掲載されている。

一、学校と家庭との接近密接を切要とする事。(学校と家庭は連携を密にする)
一、その日その日の時間は空費せざる事。(その日その日の時間を大切にする)
一、明日あり明年ありと思ふ心が大禁物なる事。(明日があると、先送りをする心はいけない)
 愛蔵の生誕地にある田原中部小学校の子どもたちも、この言葉を胸に刻み育っきた。人々への愛に満ち溢れた子どもたちになるよう、愛蔵は見守ってくれているだろう。

参考・引用文献                                                               『自由民権 村松愛蔵とその予告』 柴田良保 1984 
『回天の志士 村松愛蔵』     小澤耕一 1987                                                   村松愛蔵『田原町史』下巻     小澤耕一 1978
「自由民権指導者から救世軍兵士へ 村松愛蔵」『蔵王』 別所興一 1997
『代議士より救世軍士官に 村松愛蔵 研究』 河合光治 1990
協力 田原市文化財課課長 増山禎之