三河の文化を訪ねて 第94回

-知立ー

家康の側室「秀康(ひでやす)」と「貞愛(さだちか)」の母として
於万の方

知立市立八ツ田小学校教頭
杉浦 茂

はじめに

知立神社 多宝塔 国指定重要文化財

「池鯉鮒様の蝮よけ蛇よけの御符売り」の様子が、岡本綺堂により『半七捕物帳』に描かれている(「お化け師匠」)。事実、知立神社のお札は蛇除けに霊験あらたかとして、近世から篤い信仰を集め、その分社も全国各地に勧請されている。

本稿では、戦国時代にその知立神社の神官である永見家に生まれた女性の歩んだ道を辿ることで、戦国時代を生きた女性の思いに触れられたらと思う。

知立神社と神官永見氏

知立神社の歴史は古く、六国史のひとつである『日本文徳天皇実録』の仁寿元(八五一)年十月乙巳条に、「進 二参河国知立砥鹿両神階 並加二従五位上」とあるのを文献上の初見とする。

その後、平安時代をとおして朝廷による在地の神々の序列化が進み、平安時代末期までには知立神社は、東三河の砥鹿神社に続いて、三河国の二ノ宮として位置づけられた。


知立城址 知立市西町於万の方の血筋である永見氏は、古代・中世において知立神社の神官としてだけでなく、武門の家系としても当地域に勢力をもっていた。平安時代末期に神主であった永見貞春は、保元・平治の乱を戦った武士であったと伝えられている。

以下、永見家に伝来した『永見氏家譜』(以下『家譜』と略称)によって、中世の永見氏の歩みを概観してみたい。

 

 

南北朝時代の永見氏

永見氏系図抄『家譜』によれば、第十九代永見義高は、南朝の後村上天皇に従い、宮が置かれた賀名生(あのう・現奈良県五條市)に供奉している。義高の没後、神主を継い だのが、貞俊であった。貞俊は、在原業平の子孫である在原師喬の三男で、観応二(一三五一)年に養子となり、永見家を継いでいる。古代の名族在原氏の子孫である在原師喬は、十三世紀末から、三河国吉良荘の領主であった吉良貞義に仕えていたとされる。神主を他家から迎えた背景は、足利将軍家とも強いつながりをもつ吉良氏との縁を求めた結果かもしれない。

さらに、第二十二代神主清貞は、「饗庭(あいば) 次郎」と号し、現在の西尾市吉良町饗庭に居を構えたようで、『家譜』頭註にも、大河内貞重の女(むすめ) が「知立神社神主饗庭二郎之妻」となったことが書かれている。

大河内氏は、源氏の流れを汲む氏族で、吉良氏の重臣であった。第二十代神主貞俊以後、吉良氏とのつながりを深めていったことがうかがえる。その成果か、応永十五(一四○八)年には、四代将軍足利義持より神領と神主領をこれまで通り安堵する朱印状を得ている。

当地域は平安時代末から、現在の知立市、刈谷市、豊田市南西部を含む領域型の荘園である重原荘の一部であった。しかし、室町時代になって足利尊氏により幕府直轄領となり、荘内を幕府の有力武士へ分割給付していた。その意味において、神領の安堵は、神社存続のため最大の課題であったことがわかる。

戦国時代の永見氏

足利将軍家の権威による支配力が弱まり、在地支配が武力によってなされる戦国時代を迎え、知立神社神官層もその対応をしていくことになる。

第二十五代神主貞守の弟、為房は、康正年中(一四五五.一四五六)に水野貞守に仕え、「三河国家計郷城主足助氏」の首を討ち取るなど多くの武功をあげている。また、為房の子貞吉は、同じく水野氏に仕え、高津波(現刈谷市)の搦手(からめて)(城の裏門)を預かっていたことが記されている。永見氏は、十五世紀半ば以降、知多緒川を拠点にその勢力を伸長させていた水野氏に一族を仕えさせたことがうかがえる。

十六世紀に入り、駿河・遠江の一円支配を成し遂げた今川義元の三河侵攻に備え、三河の有力領主の深謀遠慮がさらに図られていく。

第二十八代神主守重は、天文十八(一五四九)年に水野氏の菩提寺である楞厳(りょうごん)寺(現刈谷市)に田地の寄進を行うなど、水野氏との関係を強めるとともに、田原城主毛受照時の女を室に迎えており、東三河の在地領主とも連携を図っていた。

於万の父 永見貞英

今川義元の三河侵攻が本格化した天文年間は、永見氏にとってもその存続をかけた重要な時期であった。

第二十九代神主貞英は、刈谷城主水野忠政の女を室とした。そして妹(系図②)を刈谷の水野信近に嫁がせる一方、弟の貞近を松平清康(家康祖父)に奉仕させている。また、重原城主であった山岡河内守(名は不詳)にもう一人の妹(系図①)を嫁がせ、その関係を図った。

そんな中、今川・松平勢と織田・水野勢が西三河で激突をする。天文十六(一五四七)年、今川義元の命を受けた戸田宣光により、知立神社社殿等を焼失される事態となり、天文二十三(一五五四)年正月には、今川・松平勢により、重原城を攻略された。現知立市上重原町にあった重原城は、猿渡川に面し、舟で下れば知多半島に至る舟運の要衝であった。

この重原城攻めは、『信長公記』にも記された重要な攻防で、その際、城主とともに永見氏の女も城中において自害をしている。重原城主山岡氏は信仰心に篤かったとされ、焼失した知立神社の仮宮を重原の地に勧請したり、多宝塔を再建したりしたことが伝わっている。

その後、当地域は今川方に支配されたが、永禄三(一五六○)年、桶狭間の戦いにおいて織田信長によって今川義元が討ち取られ、今川方の下にあった永見氏の居城知立城も落城を迎えたのである。

於万と家康

於万の方は、天文十七(一五四八)年(一説に天文十六年)、永見貞英と刈谷の水野忠政の女との間に生まれた。於万の母の妹、つまり叔母に当たる於大は、松平広忠に嫁ぎ、天文十一(一五四二)年に家康を生んでいる。これらは、織田氏と連携する水野氏との繋がりを望んだ結果であるが、それも今川義元の侵攻によって、大きく変化することとなる。家康は、わずか三歳で生母と別れ、今川氏に臣従を誓う形で六歳にして今川義元のもとに送られていく。その人質生活の中で家康は、弘治三(一五五七)年、今川義元の姪である築山御前を正室に迎えた。家康十六歳の時であった。その後、二人の間には永禄二(一五五九)年長子松平信康が生まれる。

永禄三(一五六○)年に至り、桶狭間の戦いにより、今川氏の影響下から逃れた家康は、岡崎城に帰還した後、織田信長と同盟を結んだ。そのためか今川氏との関わりをもつ築山御前と家康の関係は長く続かず、その後信長の意向により、天正七(一五七九)年築山御前は殺害され、信康も遠江国二俣城において切腹を命じられた。正室と嫡男を同時に失った家康の失意はいかばかりであったか。

ところで、それより前の天正元(一五七三)年、家康は築山御前の世話係をしていた於万を側室にしている。これは知立神社永見氏という在地領主を配下に置くということだけでなく、叔母と姪という於大と於万の関係からも、家康に仕えることとなったことが想像される。そして天正二(一五七四)年於万は家康の子をもうけることとなる。

双子の出産

浜松城 静岡県浜松市桶狭間の戦い後に、岡崎城に帰還した家康は、元亀元(一五七○)年に浜松城を築城し、それ以後浜松に拠点を移していた。そんな中、家康の子をみごもった於万は、築山御前への配慮もあったのか、家康の重臣本多重次に従って、浜松城に近い浜名湖畔にある宇布見の代官中村家において出産した。中村氏は、浜名湖の軍船を支配する豪族で、今川氏に招かれて文明一五(一四八三)年宇布見の地に屋敷を構えたとされる。

また、同行した本多重次は、勇猛果敢で剛毅な性格から「鬼作左」と称された人物で、とりわけ天正三(一五七五)年、長篠の戦い中に日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の一文を送ったとされる。

その「お仙」とは、幼名仙千代のことで、後の本多成重である。成重は、生涯を通じて於万の子に臣従することとなる。

中村家で出産した於万の子は、双子の男子であった。武士の時代に双子、とりわけ男子の場合は、跡目相続での混乱を避ける意味でも、片方の子を他家へ養子に出すことも多く、二人揃って養育しないことが常であった。

この於万の双子は、一人は家康の二男として本多重次が養育し、もう一人はすぐに知立神社永見氏のもとに送られて、永見貞親の子として育てられた。

秀吉と家康を結ぶ秀康

中村家住宅 静岡県浜松市 国指定重要文化財於義丸という幼名で本多重次のもとで育った子は、天正四(一五七六)年に兄信康の計らいにより、生まれて二年後に岡崎城において家康との初対面を果たしている。生まれて初めて父と面した於義丸であったが、彼にはさらに試練の人生が待っていた。

十一歳になった天正十二(一五八四)年、小牧・長久手の戦い後の家康と秀吉との講和に際し、於義丸は秀吉の養子となる。家康を臣従させたい秀吉の政略であった。家康の実子でありながら、秀吉の子となり、名も秀吉の秀と家康の康をとって「秀康」と名付けられた。その名のとおり秀吉と家康の仲をとりもつ役割を担ったのである。そして、この時点で徳川家の家督を継ぐ立場から、当時男子のなかった秀吉の後継者候補となった。

しかし、天正十八(一五九○)年、秀康は秀吉から関東下総国の結城晴朝の養子となることを命じられる。秀康が結城家を継ぐことで、秀吉に従わない関東の雄北条氏への押さえの意味もあってである。秀康十七歳の時であった。戦国の習いとはいえ、その過酷な人生から、秀康は大きな試練と併せて多くのことを学んでいったことと思われる。この間、於万の方は浜松城にあって、我が子の行く末を心の底から案じていたに違いない。

やがて秀吉の死後、慶長五(一六○○)年の関ヶ原の戦いにおいて、結城秀康は家康方としての働きもあり、家康から越前一国六十八万石を与えられた。さらに結城姓から松平姓への復姓も許されている。子孫は越前松平家となり、その後の福井藩を築いていくことになるのであるが、於万の方も秀康に従って越前国北ノ庄(現福井市)に移った。秀康二十八歳、於万の方五十四歳の時と思われる。

そして、松平秀康は城下建設の途次、志半ばの慶長十二(一六○七)年、三十四歳の若さで病没することとなる。実は、その三年前に双子の弟である永見貞愛が、やはり病を得て亡くなっているのである。

知立神社神主 永見貞愛

双子で出生し、於万の兄永見貞親に育てられた永見貞愛は、十八歳となった天正十九(一五九一)年二月、知立神社神主職を継承している。この間、実父である家康から冠や太刀等の拝領も受けており、子を思う親の心情をうかがい知ることができる。さらに、慶長二(一五九七)年には、兄である秀康から蔵米として二千俵を送られている。また、秀康の越前入国に際しては、弓十張が知立神社に奉納されており、兄弟の絆を感じることができる。

しかし、元来病弱であったとされる貞愛は、慶長九(一六○四)年十一月、三十一歳の若さで病気のため亡くなる。家康の双子としてこの世に生を受け、武将として数奇な道を歩んだ兄秀康は、神主としての道を歩んでいた弟貞愛の死をどう受け止めたのであろう。それは生母於万の方においても同様である。

見舞状知立神社に、貞愛の亡くなった年の六月と思われる、於万の方からの見舞い状が残されている。「遠方の御事に候へば阿(あ) んじ申まいらせ候 ただただ御よふす承りたくのミ」という遠い越前から子を案じる於万の方の思いが胸を打つ。戦国時代という時代に翻弄された母と双子の兄弟はそれぞれの道を歩んできた。

親が子を思う気持ち、とりわけ自分の分身である子を思う母親の気持ちは、父親以上のものがあるのかも知れない。

なお、手紙にある「弥四郎」とは、於万の方の弟貞重の子である可能性が強い。貞重は神主職を貞愛に譲り、子息共に秀康を支えるため越前にいた。

於万の人生

「於故満」(おこま)あるいは「池鯉鮒之御方」とも称された於万の方であったが、二十六歳において家康の側室となるまでの人生は不明な点が多い。しかし、今川義元による三河侵攻をきっかけとした知立城の落城や父貞英を始め身内の戦死等、戦国乱世の中を生きてきた。

そして、家康と出会い、双子を出産し、長い別れを経た後、秀康との越前暮らしを楽しんだわずか数年間。三十年間思い続けた貞愛を失ったばかりか、秀康をも失った於万の方の嘆きはいかばかりであったか。慶長十二(一六○七)年、秀康の死後、家康の許可なく於万の方は剃髪し、長勝院と号した。家康も思うところがあったのであろう。それに対して家康は何の咎(とが) めもしなかったという。 三男秀忠に将軍職を継がせた徳川家康は、元和二(一六一六)年、駿府城において死去する。七十五歳であった。その後於万の方は、元和五(一六一九)年に七十二歳の波瀾の生涯を閉じた。

現在、高野山奥の院参道脇に、慶長九(一六○四)年、生前の秀康によって建立された生母於万の方と永見貞愛の名が刻まれた石廟に並んで、秀康嫡男忠直によって秀康の石廟が建てられている。生前一緒に暮らすことができなかった母子三人がそこに居る。

参考文献

  • 『知立神社古文書・永見氏家譜』(第二輯(しゅう) )知立神社社務所
  • 『知立市史』上巻 知立市